3月のトレーニングの会

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3月ももう末だ。
うちの近所の学校の桜はもう咲いている。
立川のモノレール下の街路樹の花も咲いている。
たぶん木蓮だと思う。こぶしより小さくてかわいい花。


しかし植物はすごいね。
気候がある一定のところに達したらちゃんと花を咲かせて、散って、
次は葉をつけて、それも散って、
寒い間になんかすごいのを蓄えてまたきれいに花を咲かせてー
というのをずーーっと毎年きちんと繰り返し続けている。

たぶん最初は種か球根か苗か、ともかくあんな小さいのが、だよ。
あの中からこんな花が出てくるなんて
最初から想像できる人なんかいなかっただろうに。
いったいどんな可能性入ってるんだよ!
考え出すと不思議すぎるのでやめとくけど
「全体はその部分部分の総体より偉大である」
というゲシュタルト心理学にある言葉が思い出されてしまう。



で、その木蓮を見たその日の3月のトレーニングの会のワークは
ゲシュタルト的なものだった。


不快な気持ちが身体のどこにあるか感じて、
その身体の気持ちになってセラピスト役の方に話す。
セラピスト役の方はただ受け止める。

私の不快感情は腕の先あたりにあった。
最初は不安を口にしていたその気持ちは
セラピスト役の方が受け止めてくれる安心感によってだんだん怒りに変わっていって、拗ねてつらつらと文句を言い出した。


「誰も助けてくれないし」と。



びっくりだわ。


どっぷりその感情につかって喋っているんだけど、どこかですごく覚醒している部分もあって
その文句に対して
「えー!まだこんなふうに思ってるのーー!」
と思う大人の思考を使う私もいるんだ。


大人っていうか、年上の姉的なチャイルド。

「おかーさーん!まだあのこ拗ねてるー!いったいいつまで怒ってるの?!」
みたいな。チャイルドの感情を見て感情的になっちゃう部分。


でも、身体に残っていて、せっかく出てきたんだから
言いたいだけ言わせる。
いいんだ。このさい出してしまえ。出したら何か入ってくるから。

と大人の私は姉的チャイルドの動揺も含めて思う。


そしてセラピスト役の方がその感情を訴える部分に手を当ててくれ

それを半分分けてください。

と言ってくれた時
その文句に対して「本当は違うよね」という明るい視点が入って
かつ
怒りだけでなく悲しみも感じた、
というパートナーの方のシェアも合わさって
思わず涙が出た。


そうなんだよね。本当は違うって知ってる。十分わかっているはず。
でも、いい足りなくてまだ主張したい気持ちが、ほんの腕の先部分にまだあったんだ。
思考でどうこうできる気持ちとそうでない気持ちがある。
とほほーな気持ちになる姉的な部分もあるけど
もうそれも含めて責めるのはやめている。

責めずに
ほほーまだ怒ってるねえ。
でも今は誰も助けてくれないわけじゃないよね?

んで、どうしたい?

と聴けるようになっている。


まだ言いたいのならしばらくそう言っててもいいよ。
でも本当はどうしたいの?どうなりたいの?


と気持ちを十分抑圧させずに感じて聴くと、何か出てきたり思考や行動が変わってきたりするんだな、

ということを自分の体感で学んで来て、わかるようになってほっとしている。



で、
ワークの最後に半分だけじゃなく全部渡すことになるんだけど
そこで「全部渡すのは申し訳ない」と躊躇する私の部分があることで
気づきが起こる。

自分の不快な気持ちを全部相手に持ってもらってはいけない

という思い込みがあることに気が付く。


昔、誰かの愚痴のはけ口に一方的に使われていることに気がつかず
それを拒否することもできずにいた頃もあった。

でもそれはとても不快な事だと大人になって気がつき
自分で持っとけ!と怒りを正当に感じられるようになった。
そして怒りを感じたり嫌だと思えば
ぶつけずに、適切に表現すればいいのだ
と学んだ。


だから本当は、
相手もそれができる(無理なら無理といえる)人だと信頼していれば
「大丈夫だから渡して」と言われれば
渡せるはずなんだけど

誰かに自分の荷物を「全部」持たせることなんてとてもできない
と思って躊躇する部分がまだあるのだ。


自分で持たなければならない(だって昔ぶつけられて私は嫌だった→だから今目の前のみんなも嫌なはず)


という、自分で作った観念が、まだあったんだな。
それは「嫌だった」という気持ちから作ったもの。


ぶつけるのが良くないのであって
いいと言ってくれる適切な相手に
思いやりを持ちながら表現したものを持ってもらうのはいいんだよ。


って
今までそう学んできたことのまた
再々々々々・・・確認。
(↑姉的チャイルドがまた呆れている)
相手のものは
「全然大丈夫。ぜひ渡してほしい」と受け取れるのに。

自分の不快感情は間近で見すぎているから巨大な気がするからだろうか。
でもきっと相手も 自分のは巨大 と思っているのに自分が平気なのは
相手のものは自分のものとして取り込まずにただ受け取るからだ。
そして相手もそうできるんだ。


今まで十分そうしてきてもらったよね?
そうすることでいろいろうまくまわるんだったよね?
まわらないと淀むんだったよね?
淀んだら誰かの力にもなれないよね?


と、今この時期にこの気づきがあることの重みを感じて
ピザをかみしめた。


うーん、学びは一生続く。



そういえば
誰かをサポートすることやされることを

手を差し伸べるとか
手つだうとか
手を借りるとか貸すとか

そう表現するよな、と
数日たって、自分の不安&怒り&悲しみが残っていた手を感じながら思う。


なんかが淀んでいる手でそれらをするのはまずいから
ワークで出せてよかったな。


全部すっきりしたかな?と再び手を感じてみると
すごく小さくなっているけどそれが存在してた感覚はまだ残っている。


いろいろ大切なことを思い出すのにちょうどよいくらいだと今は思っている。




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テーマ : セラピー&ヒーリング
ジャンル : 心と身体

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あや

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