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私の怒りとのつきあい

感情はエネルギーだ、といわれる。

例えば怒りという感情を抑圧していると
そのエネルギー自体は無くならないので
それが心身の症状などに形を変えて表れたりする
という考え方は
古今東西いろんな分野の人が言葉を変えて言ってきている。

私自身も抑圧の結果心身に不調をきたしたことがあるし
家族や周りの人にも
当てはまることが多いと感じるので
とても納得がいく考え方だと思っている。

もちろんそれがすべてではないけど、そういうアプローチが必要なケースがあるのは確かだと思う。


私の亡くなった父は統合失調症という病を持っていた。

今ではだいぶメジャーになり、割と理解も進み
良い薬もあって治る希望もある病だけど
私が子どもの頃は
まだイマイチ不明なことが多かった。
なので私にとって父は
理解を超えた、治らない病を持った人
という印象があった
(あくまで、私の父に対する感覚ですが)。

それは配偶者である母にとってもそうだったのだと思う。
大変そうな病気の父、それを支えるのがまた大変そうな母
という風に私の目には映る両親とその家庭で
誰が悪い訳でもないけど
そこではとても子どもらしく奔放には振る舞えなかったなあ
という私の「主観的な」事実がある。



「だから辛かったわたし」という話をしたいのではないのです。
抑圧した感情をどう解放するかというはなし。



子どもの感情は、受け止めてくれる相手がいるからこそ自由に表現できる。

泣いた時、反応してくれる相手がいるから
泣いて何かを訴えるわけで
もしそれがなければ諦める。
サイレントベビーなんて言葉も最近良く知られるようになったけど
赤ちゃんでも子どもでもそういったことが起こる。
大人だってずっと訴えを無視されてたら、いつか言うのを諦めてしまうだろうし。

もし子どもが
「この人(親)は自分の気持ちを受け止めきれないだろう」
「受け止められないどころか、ここで気持ちを表したら状況が悪化するだろう」
と感じたとしたら
その子はその家で生き延びるために本能的に
表現をやめるかもしれない。
子どもの性質によっては表現だけではなく、感じること自体をやめるかもしれない。
そして生き延びる手段として感情を麻痺させたまま大人になる場合がある。


…ということを知ったのは当然大人になってからで

あちゃー私このタイプかも!

と認めざるをえない状況に追い込まれて
はじめて認められたわけで。

若い頃はそんなに自覚がない程度だった。
それなりに喜怒哀楽はあるし、生活上そんなに支障もないし、自分の感覚が普通だと思っているし。

でも、自分が結婚して
夫という親密な相手と家族を作るという過程で
ようやく安心して何かを出したり向かい合うタイミングが来たとき
いろんな感情にまつわる課題が噴出してきた。


長くなるので続く。












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8月のトレーニングの会のこと

いつものことだけど、ブログ意欲が湧く時と
そうでない時の差が結構ある。

夏はなにかとフライベントがあったり人と会う機会が多いので、それが低下してしまう。
新しいことを短期間で覚えたり
知り合いレベルの大勢の人と長時間いて
いろんな自分の感情やパターンや人のそれらを感じていると
頭の情報処理がおいついていかない感じになってくるからだと思う。

アーユルヴェーダ的に言うとヴァータが乱れる感じ。
丹田でいうと上がりまくってる感じ。
ある人は「頭が砂嵐状態」って言ってた。

まさにあたま砂嵐状態。
PC立ち上げて文章を書く気力がなく
メモ帳すら取り出す意欲もなくなる。

そんな時はかろうじてiPhoneのメモ機能に
細々と分断された言葉を書き留めておくことになる。
話は逸れるけどメモ機能って便利で好きだ。
ふと思い浮かんだことを気軽に書ける。
でも、あとで見返すと
お、こんなこと考えてたんだってことが書いてあったりして
自分でもへえと思ったりする。

砂嵐に話を戻すと、
砂嵐になるから嫌だというのでは決してなくて
(嵐にならず安定したいので工夫はする)
むしろ楽しかったり所属欲求が満たされたりする。
しかも、人とある程度の深さで関わると
その人に反射して見える自分が見えてくる。
あ、自分って実はそうなんだってわかってくる。

あ、そうだったんだ、へーそうかあ
でたいてい興味深く終わるけど

たまに

自分の心のこの部分は木でできていると思っていたのに
何かと(って大抵人だけど)ぶつかったら木じゃない音がする!
実はここ真鍮だったのか!色が似てるのに!
というレベルの発見
それ級のおどろきがたまにあったりする。

なんにしても自分のことがわかるのはほっとする。

ああ、やっとこの人(わたし)のことわかってきたっていうオトナ心と
もーー!やっとわかってくれたわけ!?遅っっっ!!
というコドモ心が両方安堵している感じがする。



ワークもそう。
先日はトレーニングの会であるワークをやった。

名前でない単純な言葉でハートめがけて声をかける。
相手が反応する(反応しないという反応も含めて)。

それだけなんだけど
自分がその瞬間ふっと何を思うのか
口をついて何を言うのか
身体がどう反応するか
思考は何考えるか
があらわれる。

で、それ感じたり考えてる自分ってのを俯瞰してみたら
またこれあのパターンじゃね?というのがバラバラでてきたり
他の方々のワークをみている自分がどんな気持ちなのか感じたり
その結果、ではこれからどう自分はしていきたいかなーと考えたり
一見シンプルなワークだけどいろんな角度から見ると、
ずるずるとつるをつたうように自分の課題のヒント的なものが出てくる。

すごいワーク。あと、場が持つその深みを掘り出す力。

私は、別の場で同じワークをしたらどうなったか?ってたまに想像する。
たぶん同じようにはならない。
それはそれで勉強になるかもしれないけど
この日感じたことは出てこないだろうと思う。

だから本当に貴重で大事なんだ。

諸事情でしんどい思いをしながら来る人もいる。
でも、たゆみなく来てくれて会えて、真摯に人生に向かい合っている姿を見ると
私もまた真摯に生きていこうと思う。
そういうふうにするのが好みなんだ、私は。
そしてそういうふうにしている人も好きなんだ。

この日は比較的早い時間に終わって
ピザを頂きながら他愛もない話をする。
嬉しい時間。
嬉しいからピザの会って言われてもいい(笑)

帰り道はSさんと一緒になったので
シェアで話してくれた内容についてまたしつこく聴く私(もう疲れてるっつの。ごめんなさい)。
大事な気付きのシェアをしてくれることで
私の中で小さく芽生えては見失い、また発見しては元に戻る視点を
くっきりとさせてもらった気がした。
頭のなかの考えと、それを体現してくれる存在とでは説得力が違う。
ひとりではできないことだ。
メモ機能に書いただけでは忘れてしまうこと。

途中で別れ、ひとりになって
今日の出来事を回想した。
ある一組のワークの姿を思い出していたら、一瞬
ドリカムの「何度でも」がBGM的に脳内で流れてきた。

一万一回目まで叫ぶのって、勇気がいるよなあ。

そういえば、シェアでみんなそれぞれ話してたことを思い返しても
私も含めだけど
それに近いことしてるんだな。
一万回までは繰り返さないかもしれないけど、際っきわまでいってどかんと違う景色を見る、みたいなこと。
そんなことをふと思った。


プロフィール

あや

Author:あや
インナーチャイルドセラピー
ヒプノセラピー
アクセスバーズ等のセッション
及びアフターカウンセリングを行っています
(女性限定)


ウェブサイト
 http://aarteeni.net/


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