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魅惑ケーキ

先日、夫の誕生日だったので
以前からリクエストされていたチョコレートケーキを焼いた。

20140628.jpg

レシピは「グレーテルのかまど」というNHKのスイーツ番組のもので
作ったことのないタイプだったけど、普通に美味しく焼けた。

ちなみにこれは
オードリーヘップバーンが作っていたケーキ、という逸話つき。
こういう逸話があると美味しさが150%増しに感じられる。
背景を知るのが好きだ、ものでも人でも。


最近はあまり焼かないけど、ケーキを作る過程は楽しい。
もったりした生地が混ぜるうちにつやーーっとなる様子とか
オーブンの中でいい匂いをさせながら
ほわーっと膨らんでいくのを見ていると
もう細胞からなんか沸いてくる!という感覚になる時がある。
もしかして「ワクワク」の語源ってそういうことなんだろうか。

楽しいのはいいんだけど
問題なのはホールを夫と半分ずつ、しかも生のものは大抵2日で平らげてしまうこと。
いくら2人とも甘党だといっても、歳とともにだんだんきつくなってきている。

いや、全部食べなければ済む話ですけど。

そうは言いつつケーキが焼きあがると理性はどこへやらで
焼きたてを味見と称して食べ、
生地が落ち着いた頃
きちんとお茶を淹れて堪能しながら食べ、
冷蔵庫に入れて数時間後
「やっぱ冷やすんだった、冷えたの最高」と食べ、
結局いつも全部なくなってしまう。

そしてスペースの空いた冷蔵庫を眺めてしばし呆然となる。

…えーとこれ板チョコ3枚と砂糖60グラム、バターが‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

やめよう。

材料復習するのやめよう。

たまにだからいいのだ。
年に数回しかこういうことしないから。
誕生日だし。

そう自分に言い聞かせて
何かを締め出すように冷蔵庫の扉を閉める。

そして胃もたれに耐える日々。

やめる日は来るのか。
来ないだろうなあ。








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受けとる力 あらわす力

受けとったものの多さゆえに、毎回終わったあと放心状態になってしまうトレーニングの会。

今回も、いつも以上にキャパオーバーであった。

部屋に入ったらすでに先輩のお一人がいらして
卒業おめでとう、これお祝いのシャンパン
ノンアルコールだから最初に乾杯できるよ
と満面のあたたかい笑顔を向けてくれたのだ。

ありがとうございます。
嬉しい。私1人では卒業出来なかったのだから
私のほうが何かしたいくらいなのに。
こんなふうに祝ってもらえるなんて。

おかげさまで、おかげさまで、と
ありがたさと恐縮する気持ちでいっぱいになりながら
揃ったみんなからその美しいシャンパンで祝杯をあげてもらった。

先生もみなも笑顔や拍手や思い出話や
色んな形で優しい気持ちを向けてくれた。
エルダーフラワーとリンゴとハイビスカスのシャンパンは
華やかで軽やかで、優しい香りがしてとても美味しかった。

ここまででもうすでに幸せいっぱい飽和状態で
なんていい1日、ありがとう、おやすみなさい
と言って1日を終えてしまいたいくらいだったけど
トレーニングはこれから始まるのである。すみません。


毎回思うけど、シェアリングだけだってかなりの学びの量だと思う。
みんな日常で飛躍している人達ばかりなので
こっちでもあっちでもびよんびよん飛んでる様子を
感嘆しながら聴いているだけで
あっというまに時間が過ぎてしまう。

しかもそれが必ず自分の糧になるのである。

何かにチャレンジしたり
丁寧に細やかに、深く深く自分を見ている姿を見て
私もそうあろうと思ったり
似た課題を持つ仲間の話に
私も表現しきれない時ある
私も犠牲者やめようとしている、と共感しエールをひそかにおくりつつ
そうやってアサーションすればいいんだなとか
自分を守るためにそういうふうにするんだな
と脳内でメモしたり。

みんなそれぞれに真剣に自分の日々を生きていて
それを見せてくれることで私もまた学ぶ事ができる。

でももうすでに冒頭から飽和状態なので
シェアリングだけでもパンク寸前、
今日はもうきついワークは出来ないかもと思っていたところに
受けとる力とあらわす力のワークである。

このワーク、私にとっては今日の始めからスタートしているようなものである。
いや、このひと月と言ってもいいかもしれない。
愛を沢山受けとる機会があって、感謝を沢山あらわしたかったこのひと月だったから。


ワークとしての内容は
相手にプラスのストロークを投げる。
どんなにあなたが素敵かを表す。相手が受け取れるように。
受けとるほうはその気持ちごと、その表現の努力ごと
一字一句逃さないほどにしっかり受けとる
というもの。


プラスのストロークは受けとると嬉しい。
でも受けとった端から、ざらざらとこぼしてしまうような時も私にはある。
そもそも受け取りきれない時だってある。
自分自身が
「私なんかそんなはずない」と無意識下で思っているから
信じることが出来ないのだ。

それでも最近は「受けとりにくい私」を意識しているから
受けとれるようになってはいる。
でも相手が費やしてくれているエネルギーや気持ちと同じ重量ほどは
受け止めきれていないという自覚もあって
ああ、なんでこぼしてしまうんだ、
こんなにくれてるのにと、もどかしくなったりすることもある。

あらわすほうだって、
どんなに感謝しているかとかどんなに素晴らしいかいうことを
私が思っているのと同じ重量ではまったく言葉にできない。
この言葉では足りないと思ったり、ありきたりすぎて伝わらないと思ったり
そうしているうちに言えなかったり、なかなか難しい。

しかも困ったことに
どちらも自分にとって大事な対象であればあるほどできないのだ。

受けとる際には
例えば「存在そのもの」とか「自分が大事にしたい自分の部分」とかいう
自分にとって意識的にも無意識的にも
重要度が高いことに対するプラスのストロークは
受け止めがたい。
本当はすごく必要としているはずなのに。

あらわす際にも
自分が敬意や愛情をすごく持っている対象
そういう相手や素敵だなと思う相手の部分
に対してはしどろもどろになって
「えっとすごく本当に、いやもうなんて言っていいかわからないくらいホントにホントにすてき」
みたいに
長い割には結局何がすてきなのかよくわからない表現をしてしまう。

そういうことがとても悔しい。
もっとできるようになりたい。

だから今のベストを尽くしてワークをするんだ。

パートナーになってくれた方も、パートナーじゃない方も
たくさんストロークをくれた。
そういうふうに思ってくれてたんだと
ありがたく嬉しく受け止めながらも
やっぱり受けとめきれずとりこぼしたり
あっという間に忘れてしまったり
いたたまれなくて交代したい気持ちになったりもした。

あらわす側にまわった時は
素敵だと思うところが沢山あるのにぴたっとした言葉で言えず
他の人の表現にああそうそうそう、と頷いたりしていた。
あの素敵な部分はそういう言葉で表せばいいんだなと
語学を学ぶように思ったりした。

ただ、受けとれない自分というものが役にたつこともあった。
相手が、同じように受けとれない時、受けとりにくい内容や表現があるということがわかるのだ。
そんな時は
先生から、仲間からそうしてもらったように
「今は受けとれないかもしれない、
でもこれは本当のことです
あなたはこんなに素敵なところがあります」
という気持ちで、伝えたいことをあらわす努力ができる。

まあ仲間の場合は自然にそう思うのだけど、他の人の場合もそのような姿勢でいようと思える。

私がしてもらったようには、まだ出来ないけれど。


ともかく毎回毎回、ワークするたび課題は見つかる。
ここからさあどうするか、である。

思うのだけど
上手に愛を受け取ったりあらわしたりを人として普通にできたら
もっともっと豊かで楽しい人生になるだろうなあ。

ストロークをストレートに受け取れたら喜びいっぱいだろうし
わあ素敵!感謝!好き!という気持ちをその重量ごときっちりぴったり表現できたら
すごくすっきりして気持ちいい。

自分にとって大事な対象ほどできなくて困ると書いたけど
本当は大事な対象であればあるほど
できたほうがやっぱりいい。

というかしなきゃ。

自分も相手も大事にするって
こういうことでもあるんだと思う。

私は自分も相手も大事にしたい。

だから、練習していくんだ。








ラベル考 その2

(その1の続き)

なので、改めてよく考えてみると
私は本当の声を聴きたいと思っている。

いやいや大雑把すぎる。
というかこれは当たり前のことだ。基本だ。

もう少し絞ると、特に子ども時代を子どもとして生きられなくて
その結果なんだか生きづらい、という人のサポートができたらいいなと思っている。

例えば
支配されたり放置されたり
侵入されたり親代わりせざるを得なかったり
ニュアンス的に「abuse」(乱用)と言えばいいのだろうか
日本語訳の「虐待」の定義だけでは説明できない、
尊重されるべきものをされなかったという思いのある人。
今大人でも、子どもでも。

私自身もそうだったというのも理由のひとつだけど
必死で子ども時代を生き抜いてきたのに、今もそのせいで生きにくいだなんて
そんなの辛いじゃないか、とただ思うのだ。

子ども時代を子どもとして生きられなかった人は
自然と湧く感情や思考を抑えこんだり
生きるために「こうすべき」「しないべき」というマイルールを持つ場合があるように思う。
周りの環境に適応するためにはそうすることが必要だったから。

でもいつか抑え込んだ何かが
「もう無理、このままでは苦しい」と何らかの現象の形で訴えだしたら
その現象をダメなものとしてさらに抑え込んだりしないで、
それはその人自身に何を訴えたいのかを聴くと
現象の解決につながったりすることがある。

それがどういう現象として現れるのかは人によるので
家族含む人間関係の悩みだったり
精神的な不調だったりいろんな形をしていると思うけど
その形を通して自分自身に本当に訴えたいこと、問いかけたいことは何なんでしょうね
ということを一緒に考えていけたら幸せだなと思っている。

それを考える上で、私がいいなと思う方法は
主にヒプノセラピーであったりゲシュタルト療法であったりする。

何がいいかって、本人のもともと持つ宝物を発掘していくような素晴らしさがあるからだ。
それを見せてもらうと単純に人って凄いなと感動するからだ。
人の持つ治癒力とか可能性を信じたい性分なのだ。

抑えつけた何かにコンタクトしたり、言い分を聴くのは
結構大変でショックを受けたりすることもあるかもしれない。
でも、なんだか安堵感があったり、やっとわかったって嬉しかったりもする。
少なくとも私はそうだった。
なんだか分からない辛さが続く状態よりも
ショックだけどそういうことだったのか、と納得できるほうが好みだ。

そして「そういうこと」を目の当たりにさせてくれるのが
他の誰でもない自分なのだから
腑に落ちる度合いも高いのではないかと思う。
誰かの答えではなく、自分の中から湧き出る答えを
自分が導き出すのだから。


ある現象がその人になにを訴えているかをこの方法でみる時
子どもの頃に抑え込んだ声を聴く場合もあれば
その人のもっと根源的な声を聴く場合もあると思う。
とてもじゃないけど狭い私一個人の視野では計り知れない。
本人だってなかなかわからないけど
でも本人にしかわからないそれを理解するために
この方法は有効であると思うし
理解することで現象が解決したり納得したり
その人が心の奥の声とつながった豊かな人生を送れるなら
こんなに素晴らしいことはないと思う。

そしてその過程に関われたらやっぱり幸せだと思う。



ざっと大雑把に書くとだいたいこういう感じのことを今は思っている。
でも、だいたいあっているけど大まか過ぎるので
これからもう少し詰めていきたい、そんな気持ちでいる。

ともかく長いので続きはまた別の日にしよう。





ラベル考 その1

講座修了の課題をきっかけに、自分のラベルについて考えている。

自分がこれからセラピストとして活動するとして
どういう人にむけてどんな療法をやっていきたいか
どんなセラピストになりたいのか
自分の方向性のようなものを考えているのだ。

考えると言ってもひねり出す感じでもなく
多分すでにだいたい決まっているような気もする。
昔からずっと漠然と思っていたことだから。

でも、同時にずっと私にはムリと思っていたから
それを明確にすることやまっすぐ目指すことを避けてきた。
すごく望んでいるけど手に入らないと思い込んでいるから
その葛藤を持ちこたえられない
ああ直視するのやめよう
極端に言えばそういう感じに似ているかもしれない。

こうして文字にすると、
もったいないなあ、死んだらできないんだから生きてるうちにやれば?
(なかば呆れ気味にどうぞ)

と思いますよね。

でもここに私のネガティブな人生脚本があらわれているのか
「私にはムリ」方向の引力が強くて
今までやってこれなかったのだ。
いや、まったくやってないというか
やりたい気持ちを無視できず、でも勇気もなく
妥協案としてその周辺をうろうろしていたという表現のほうが近い。

もちろんその時々で必要なものがあったわけで
(就職しなきゃとか資格欲しいとか経験積みたいとか生活費が!とか)
天秤にかけながら自分なりに最善を尽くしていたのだけど。
そろそろ「その周辺」じゃなくて「そこ」に進まないとな
と思い始めている。
たぶんそうしないとだめなんだろうと思う。


その2 へ続く

幸せに浸る

嬉しくてぼうっとしている。
心理学の講座の先輩方がお祝いをしてくれたからである。

つい先日、二年半ほどかかって心理学の基礎〜上級コースを修了した。
その卒業祝いをしてくれたのだ。
ここで学んだことは知識だけではなかった。
技術だけでもない。
心理学の視点から自分というものを見つめなおすことを地道に行った。

自分を見つめるって結構難しいことだと思う。
だって大抵の人は、自分なりに最善と信じる道を生きているなかで
自分なりのくせやパターンを無意識に持っていたりする。
良かれと思って、または悪気なくそうしているのである。
あるいはひどく傷ついているのに大したことないって自分に言い聞かせることで
何とか生き延びようとしていたりする。
そうしないと生きられなかったから。
でもより良く生きたいと願ったとき
もしその良かれと思っていたパターンが邪魔をしていたり
「大して傷ついてない」ってほうって置いた部分が、置いていくなと叫んでいたら
自分でそれを認識して、じゃあどうしていく?と考えたほうが圧倒的にいいのだ。

しかし。
言うは易し、行うは難し。
わかっていても出来ない。まずわかることだって難しいうえ、長年親しんだパターンにさよならするのは大変なことだ。
だって生きるために良かれと思ってやっていたんだから。
そうすることで自分を守っていた時期だってあったのだから。
反射的に今までのパターンどおりの思考や行動をしがちになる。
それに傷ついた部分を放っておくにはそれなりの理由というものがあるので
その声を聞くのはとても勇気がいるのだ。

でも、この講座では「それ」に取り組むのだった。

だからこそ、
先生はもちろんだけど先輩方、仲間の存在はなくてはならなかった。
うまく行った時、何度も失敗する時、
一緒に喜び一緒に堪えてくれる人がいることで、先に進めた。
傷ついた声を聞く時
一緒に涙を流してくれる人がいることで持ちこたえ、より深く受け止められた。

知識はもしかしたら他所でも学ぶことはできるのかもしれない。
私は大学で心理学専攻だったので知識を詰め込んだ経験はある
(といっても幅広いのでもちろん全部ではない)。
でも、先生や仲間のサポートをいただきながら「それ」に取り組んだ経験は
何ものにも代え難い。というかここでしかできなかったと思う。

そんな学びの期間を過ごして一緒に笑い涙してくれた先輩方が
お祝いをしてくれたのである。
本来なら私のほうがなにかさせてもらいたいくらいなのである。
これがどれだけありがたいか
ありがとうと何回言ったって足りないくらいのことなのである。

お祝いしたいと思ってくれているというだけで、すでに感謝でいっぱいなのに
いろいろ考えて他の方にも連絡してくれたり、
それを快諾して遠方から来てくれたりしたこと
今日会うまでのそのひとつひとつにお礼を言いたかった。

待ち合わせして美味しいお食事をいただきながら
道を切り開いて進んでいる2人の話を感嘆しながら聴いた。
それぞれの素晴らしいところ
怖くても進むところや人を大事にする勇気や
冷静な視点やあたたかい思いやりに
それらをオープンに見せててくれることに
「すごい」という言葉しか出なかった。20回くらい連発してたと思う。
(ボキャブラリーを増やそう私…)
私のぐずぐずした話も親身になって聴いてくれた。

とても楽しかった。

ここで学ぶことができて良かったな、と
今までもいろんな場面で何度となく思ったことをまた思った。

幸せだ。

まだまだ学びは続くしこれからが一層大変なんだけど
この幸せな気持ちを大事にあたためながら進むエネルギーにして
何かで「お返し」できるようになりたい。

何回言っても足りないけど、今日は本当にありがとう。
お会いできて、幸せです。



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プロフィール

あや

Author:あや
インナーチャイルドセラピー
ヒプノセラピー
アクセスバーズ等のセッション
及びアフターカウンセリングを行っています
(女性限定)


ウェブサイト
 http://aarteeni.net/


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