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感謝&移行します

このたびブログを移行してひとつにすることにしました。

新しいブログはaarteeniのサイト内に。


この「川の一滴~」を書いている間
いろんな方々に支えてもらって、はぐくんでもらったなあ。

たくさん学びがあって、
振り返ればありがたいことばっかり。



たとえば私はどちらかというと思考型だから
何かものごとがあったときに
「なぜこうなったのか」と原因を考えることが好きだし
今までよくそのようにしてきた。

けれど
私の思考は私の意識全体の5%でしかない。

5%でわたしの人生全体のことを解釈するのは
できる場合とできない場合があり
しばらくのち、もしかしたら死んだあとくらいに
わかることもあるのかもしれない。

その中でもいま確実にわかることは
ほんとうにわたしの心を深く豊かにしてくれて
たくさんの学びがあったということ。

まさに川の一滴一滴、
たまにどかんとたっぷりした水量で
私の流れを豊かにしてくれたり
支えてもらったり
清浄してくれた気がする。
気がするではなくて事実そうだ。

川の流れを止めて池にしたり
早く海に行けとか雨になれなど言わず
尊重してもらった。
大きな信頼と愛情に支えられたことに感謝しかない。

ご縁があった方すべての人に、ありがとうと言いたい気持ちでいる。

そしてこれからも、よろしくお願いします。


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2016年末

年末、と言っても12月終盤になりきらない頃が好きだ。


クリスマスを過ぎると街中がすごく慌しく混雑してきて、
何故かイライラしてる人に遭遇したり
ザ・年末商戦!という感じでなんとなく殺伐としてくるけど

それまではイルミネーションもキラキラして
ああ今年も終わるねー
お世話になりました〜そしてよくがんばったね〜
という雰囲気がのんびりただよっている気がする。

そんな雰囲気がいい。


それに節目だからか、会う人々お互いに感謝を伝えあったりするのもいい。

ああ今年も平穏に楽しい時間を過ごせたなあ
この方のおかげでこんなことができたなあ
勉強させてもらったり依頼してくれて有難いなあ
手間ひま心づくしに感謝だなあ
などなど。


受け取ったものについて言葉にできなかったとしても
思いを馳せるのは可能だし
それだけで心の中が満たされるような感じがする。
まあ伝えられるのが一番だけれども。


あと、たとえトホホな感じだったとしても
節目があるとそれなりに頑張った自分を許容できる気がするのもいい。


****

少し前の話だけど
クリスマス前に忘年会に招待してもらい
たくさんご馳走になった。

こちらはなんの労もなく、
ただただご厚意に乗っかって
ひたすら美味しいものをいただきまくるだけ、という
凄まじく贅沢な時間を過ごさせてもらった。


ほぼ貸切状態にしてもらったお店にお邪魔していたのは数時間で、
その間中もたくさんのおもてなしや心づくしをいただいたけど
それより前に
もっとたくさんの時間をかけたり
手間ひまかけたり
選んだり決めたりして準備してもらっていた。

味しみしみのこんにゃくや
鶏鍋のお出汁や
蟹とそのスープ
持たせてもらったお菓子に
そんな事を感じた。

あああ、有難いなあ。

とても嬉く美味しい。

感謝、と極太の筆で思い切り書初めしたいような気持ちになる。



と同時に



ヤバい。


と思う心のくせもあり


こんなによくしてもらったりいい事があったら
次はなんか悪い事が起きるんじゃ(;ω;)

とか


私はこんな大人になれるんだろうか(;ω;)
(←もう立派な中年だよ)

とか。


もはや文字にしてみるとネタのようだけど
そう湧き上がるものがある部分もある。


しかしネタにしたり自分でなだめたりするのも私。


素敵な人々に会ったら
その素敵要素を頂戴し
有難いおもてなしをいただいたら
有難く栄養にさせてもらい
どういう形でかはわからないけど
お返ししていければよいよ
と心の中で宥めながら
ありがたくこの日のことを思い返すのでした。



いよいよ今年も終わりそう。

今年お世話になったたくさんの方々
本当にありがとうございました。

無事に平和に、年を越せますよう
新しい年も穏やかに迎えられますよう
お祈り申し上げます。







今年もあと2か月なのか。

今月は、前半はなんだか妙に慌ただしく、その反動で後半は意欲が低下するという
いつもながらのパターンをなぞっていたような気がする。

でも10月は毎年ながら、
日差しはあたたかく風は涼しく、過ごしやすくて好きだ。

今月も月一度のトレーニングの会が終了した。


今回は部屋に入ったとたんに
「これ買ってきたのー♡」とバーンと素敵な和菓子の箱を見せてくれた方がいた。

山口の豆子郎のういろう!!

image1 (2)


これ大好きだ。
母方の実家が山口で、お土産の和菓子と言えば豆子郎だったけど
あまり日持ちもしないので貴重なイメージがある。
つるんとして控えめな甘さがおいしく
味も包装も品があって美しくて
買ってきてくれたことが嬉しく歓喜の声をあげてしまった。

旅行かと思いきや関東のお店で購入してくれたらしいのだけど
お話によれば近々その店舗は撤退してしまうらしい。



いつまでも あると思うな 親と贔屓の和菓子屋。



大事に大事に味わっていただきました。ごちそうさまでした。


***************

シェアの中で、自分と他人との「線」や「磁力」や「境界線」「オーラ」の話が出た。

このことはずーっと私の課題でもある。

他人の感情や理解度や受け取り方は相手のものであって、こちらがどうこうできない部分がある。
この「部分がある」、というのがポイントというかその要である「線」のようなもので
じゃあ
「相手のものだからね」でそっけなく済ませてこちらがまったく努力しないとか歩み寄らないとか
そういう極端な話でもない。


ちょうど、前日にEテレでアドラーの本を読み解く番組をやっていたのを見た。
(なんかずいぶん前にも見た気がすると思ったら、再々放送らしい。世の中的にも人気があったんだな)

「課題の分離」がテーマの先週に引き続き
今週は「共同体感覚」。

アドラーは
「『課題の分離』は人間関係のゴールではなく、入口だ」と書いていた。

たぶん「線」の話も同様なものだと思う。

そして
「ではゴールはなにかというと『共同体感覚』だ」と。


そうなんだなあ。


自分の課題だなあ、と思うと
できるできないを問題ととらえがちに、私はなりそうになるのだけど
目標は別なところにあるのだということ
その先に大事なものがあるのだということを
なんだか話をききながら、同時に思い出していたりもした。
たぶんそこを意識することで、バランスがとれるような気もする。


そういえばアドラーの話を先生も冒頭でしてくれていた。

線の話も皆に少しづつ共通していたし
なにかしらリンクするものがあるということが
面白いし、道の確かさを感じられて愉しい。


もうひとつ、そういえば
私のある側面についてプラスのストロークをくださった人がいたのだけど
そのシェアのおかげで
私自身がその側面のことを、長い期間マイナスだと思っていたことに改めて気が付いて
ちょっと衝撃でぼやっとしてしまった。

本当に、物事は陰陽があって、性質を生かすも殺すも自分自身、という感じがした。


物事を真剣に見つめ続ける人との学びは奥深いなあ。そして貴重だ。

無事に、毎月集まって、美味しいものを食べたりピザをごちそうになったり
今年もできて本当によかった。

今年はまだあと2か月あるけど、年末のような、振り返りたくなる気持ちでいる。





9月のトレーニングの会

9月も終わりだ。

今年の夏は、楽しいことも多かったけれど比較的意欲が低下していた。
やる気が起きなかった。


やる気が起きない自分をそのまま認めて、起きないなりに過ごせるというのは
大変贅沢でありがたいことだと私の一部は思う。


「だって、やる気起きないからと言ったって、
やるべき仕事や家事やいろんなことが目の前にあるのだから
やらなければ生きていけないでしょう??」

と思う自分がいる。これはある視点からみて正論だと思う。


でも、私はこの正論を自分に押し付けたために生きていけなくなったこともあるので
心とか命とか魂の方面での正論も自分の味方につけるようになった。
それが結局自分を生かすのだと分かってきたから。

それもありがたい経験だったと思う。今思えばだけど。


そういうわけで、だらだらと夏を過ごしたおかげで
少し心境が変わり、ウェブサイトの引っ越しができてほっとしている。

*********************************
9月のトレーニングの会で
その周辺の心境の変化の話をすこししたら

傷口から流血しているような状態でも、自分を律してきていて鋭利なものが垣間見えた
安心大好きで桜を眺めているような時でも爪が食い込むくらいの握りこぶしを作っているような印象だった

というシェアをもらった。


なぜか、ほっとした。
分かってもらえていたのだという安堵感があってうれしかった。



私は、自分で自分を完全に見失っていた時期が長かったのだと思う。
(今でも完全に自分のことなどわからないけど)

家庭の影響で、自分がもっとも偏見を持っていた精神疾患を自分が発症し、
過去に蓄積された悲しみや怒りや恨みつらみが自分に向かっていたので
自分など無力で無価値な存在だとしか感じられなかった時があった。

自分が一時的にうつ病に罹患している のではなく
うつ病患者である自分 という感じで
ショックと悲しみのあまりアイデンティティを病気に持っていかれていた。

なのに、本質的なところを見ていてくれた人がいたのだ。
本当にありがたく、感謝と、安堵感と、諸々で泣きそうになる。



それで、そうだった、と思い出した。


高校生のとき、児童相談所で働きたいと思っていた。

「子どもの声をききたい」と思ったのだった。


もちろん、高校生の考えることなので、
そう思ったのは自分が何より声を聴いてほしかったのだろうということは今なら十分わかるし
児相がどんなところなのかも十分には知らなかったし
狭き門だったその道には結局進めなかったけど
その後大人になって岐路が何度かあるたびに
そのエッセンスが含まれるものを選んできたんだった。


それで、今 大人になった人の中にある子どもの声を聴きたいと
また立ち返っているのだ。

確かに辛かったけど生い立ちと病は私の個性の一部だ。

進む方向をあきらめない指針になっていることも確かなのだ。

過去にこう思ったから絶対こうする、という頭レベルのかっちり頑ななものでもなく
ゆらゆらとおおよそあちらあたりをいつも指す方位磁石のような指針。

完全に癒えなくてもいいのかもしれない、という視点がわかった気がした。



*********************************

この日はほかの人のシェアに感動したり、泣かされたりした。
自分への言葉ではないのに泣かされたのは
その人の心からのまっすぐで愛のある言葉だったからだ。
できなかった自分を受け入れたり誰かを大事に思っていたからこそ出た言葉だったから。
こういうところも複数人数の良さだなあ。

そして、やっぱりすごいなあと思った。

たくさんのリンクが起きていることも感慨深かったし
自分のために楽しみ喜んで生きている人がニコニコしていると私も楽しいし嬉しくなる。
素直に表現をしているとそのエッセンスを取り入れたくなる。
それに久しぶりに会うメンバーと、いつものピザを食べてうれしかった。


ワークで行った場所と、こっちだよと引き寄せてくれた体感覚を体にしみこませて
現実に活かそうと思っている。


*********************************

新しいサイトに別のブログも書いているので
もうこちらは閉めようかなと思っていたけれど
なんとなく、やっぱりおいておいてたまに書こうかなと思う。



7月のトレーニングの会

ようやく梅雨が明けた。

私は寒気・暖気・湿気のどれが一番苦手かっていうとダントツ湿気で
もうそれは子どもの頃からの体質的なものも関係するので
本当に梅雨どきは身体がだるくて重く、つらい。

カラッとした青い空を見ると、ほっとした気持ちになる。
雨は雨で必要だとはわかっていてもそう思う。


そんなわけでなのか、今月は意欲低下まっしぐら月間で
淡々と最低限のことをこなすのみのやる気のないひと月を過ごした。

超・超・超低空飛行で過ごす日々でも、
もう以前のように
「やる気のない私はダメだ」と責めるばかりでもない。
(まったく責めないかというと、そうでもないけど)

やる気のないなかで、ほんの砂粒ぐらいの欲望が芽生えたときに
それをつぶさないようにできるだけそのままにすくっていくことで
だんだんきちんとやる気が出てくるという自分のパターンがわかってきたから
その通りにしている。

これは誰にでも当てはまるものではないのかもしれない。
でも個人的には自分の中でちゃんと実績があるので、それを信頼している。

インナーチャイルドと大人の私の信頼関係を作り上げていく過程は
一度できたら終わりではなくて
何度もなんどもゼロベースからやり直していくような感じがする。
でもそうすることで、ゼロより深いところでつながりを取り戻して、
大人の私の好き嫌いとは関係なく、自分の今の状態を受け入れていっている感じもする。


月の終わりのトレーニングの会でも、そんなことを話した。

環境や外界の出来事が大きく、それに付随して気持ちも変化するみんなに比べて、
私何もなかったなあ、と思いつつ自分の話をしたら

それも大きな変化であって
まず心からだから、それが外側に現れるんだ、
というようなシェアをいただき、はあそうだった、と思い直した。

先月に続いてだけど、もっと自分の変化や動きや気持ちを
きっちり受け止めて認めないとなあと思った。

さもないと・・・・というこわい展開があるのをどこかでわかっている。ああおそろしい笑。


もうひとつ、私が欲しいストローク(共感)を相手から強烈に奪った、という話をした。

相手から強奪するようにストロークを奪うのは、本来は好まれないことだと思う。
私はそうされたことが何度もあるけれど、嫌なものだ。

今回奪ったのは、「やられたらやり返す」的にやった行為であって、結果的に悪くはなかったけど
まああまり褒められたものでもないと思う。

でも、それを「共感のカツアゲ」と面白い風に称し「あなたはやってもいいと思う」と受け入れてもらって
「ああ、行為ではなくて<わたし>を受け入れてもらっている」と感じた。


行為をジャッジするのは、簡単だ。

一般的に常識と思われがちなことや、一面的な知識で
「それはよろしくないことだ」とだけいうのは
実は誰のためにもならないものだったりすることがたまにある。

話を聴いたり背景をわかろうとしたりすればそうなることを少しでも防げるけれど
一人の人間だから、どうしても視野が偏りがちになってしまうことはある。

「偏りがちになる自分」がいつでも存在しているのだと意識し続けることの大事さを思った。
まさに無知の知だ。
それが思いやりにつながるのであれば、努力のしがいもあるなあと思う。


偏りがち、といえば、行動パターンもそうだ。
各々そういうパターンを持っていて、それを自覚したり乗り越えたりしている話を聴くと
人への理解が深まる。それこそ自分一人では体験できない心の動きや「偏りがち」な視野を
少しづつ少しづつ広げてもらっているような感じがする。


学びは多いなあ。そして、毎度美味しいピザやらお菓子やらを一緒に食べたり
ありがたい贈り物をいただいたりして心と身体とあちらこちらに栄養を補給して
また日常に戻るのだ。






テーマ : 自分を愛する
ジャンル : 心と身体

プロフィール

あや

Author:あや
インナーチャイルドセラピー
ヒプノセラピー
アクセスバーズ等のセッション
及びアフターカウンセリングを行っています
(女性限定)


ウェブサイト
 http://aarteeni.net/


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